バレンタインデーにバタイユ

バレンタインデーの土曜日。直ちゃんは京都で哲学のシンポジウムとか。脳科学の人が、哲学のシンポに出ちゃうところが、なんだかな、という感じですが。
そんなわけで、ひとりぼっちのバレンタインデー。

狙ったわけではないのですが、なぜかバタイユの「エロティシズムの歴史」をふと開けてみた。前日に読み直した、「イカの哲学」のエロティシズムの流れで。

さらにそこから、エロティシズム態にぐっと惹かれるところあって、wikipediaからウロウロとwebを彷徨っていたら、おもしろい記述を発見。で、メモ的にエントリ。

通俗的唯名論(雑感)

……他の生命をモノとか商品とかに還元しない方便というのは、声高に「生命の尊重」みたいなことを唱えるという平常態的 対応もあるだろうけれど、もう一つ、案外そういう通俗的唯名論の反転の方途もあるかもしれないあなあ、なんて。あらゆるものをモノ・商品と捉えると、さし あたり自分までもがその範疇に入ってしまい、あらゆるものが売り買いのトランザクションでしかなくなり、さらにその売り買いを見据えるなら、不思議とそこ に流転する流動体のようなプロセスが見えてきたりして、すべてが流れの中にあることがわかり、まるで同じ一つの生命現象のように重なって見えてくる……

なるほど、自分がひとつの有機的な「流動体のようなプロセス」になってしまうエロティシズム態か。確かにその方が自分としては、しっくりくるかも。

あと、wikiからこれもメモ。

EROTICISM
かつてショーペンハウアーは、恋の駆け引きの軽薄さと輝きが、性行為の厳粛さ–ショーペンハウアーによればまったく動物的な–とまったく対照をなしていることに衝撃を受けた。このため彼はエロス的営みを単なる幻想とみなし、生命そのものによって恋人たちの知性と個体性に対してかけられた罠だと考えた。

このようにエロティシズムは根底的に人間のものである。実際、ヒトに特徴的なのは、動物と違って発情期と性的に無関心な時期との循環がないということである。この不決定の空間において公序良俗の観念も発達するし、同時にまた放蕩(自由思想)も進化していく。もはや欲望は自然に発露するものというよりも、誘惑の技術によって掻き立てられるものなのである。

フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユの考えでは、エロティシズムとはわれわれ自身の主観性の限界へ向かおうとする運動であり、合理的世界を解体する侵犯行為なのであるが、この侵犯はつねに束の間のものに終わる。

ショーペンハウアーがおもしろそうなので、2冊Amazonで購入。

バレンタインデーという、罠の日に – 恋愛の錯覚という罠に、さらに企業マーケティングの罠が2重に仕掛けられたその日 – に、「エロティシズム」について考えるというのは、狙ってなかっただけにピタリと照準があってうれしい気持ち。

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